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人生朝露

人生朝露

兼好法師と荘子 その4。

荘子です。
荘子です。

吉田兼好(1283~1352)。
もう一度『徒然草』と『荘子』を。

参照:兼好法師と荘子 その2。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005167/

老子や荘子、竹林の七賢に見られる「隠者の思想」「隠逸の思想」に対する共鳴というのは、『徒然草』の特色でありますが、このうち「名利」への姿勢は『荘子』の影響がはっきりと見られます。

荘子 Zhuangzi。
『夫天下之所尊者、富貴壽善也。所樂者、身安、厚味、美服、好色、音聲也。所下者、貧賤夭惡也。所苦者、身不得安逸,口不得厚味、形不得美服、目不得好色、耳不得音聲。若不得者、則大憂以懼。其為形也亦愚哉。夫富者、苦身疾作、多積財而不得盡用、其為形也亦外矣。夫貴者、夜以繼日、思慮善否、其為形也亦疏矣。人之生、與憂俱生、壽者惛惛、久憂不死、何苦也!其為形也亦遠矣。烈士為天下見善矣、未足以活身。吾未知善之誠善邪、誠不善邪?若以為善矣、不足活身。以為不善矣、足以活人。故曰「忠諫不聽、蹲循勿爭。」故夫子胥爭之以殘其形、不爭、名亦不成。誠有善無有哉?今俗之所為與其所樂、吾又未知樂之果樂邪、果不樂邪?吾觀夫俗之所樂、舉群趣者、誙誙然如將不得已、而皆曰樂者、吾未之樂也、亦未之不樂也。果有樂無有哉?吾以無為誠樂矣、又俗之所大苦也。故曰「至樂無樂、至譽無譽。』天下是非果未可定也。雖然、無為可以定是非。至樂活身、唯無為幾存。(『荘子』至楽篇 第十八)
→天下で尊ばれるのは「富を得ること」「高い位に就くこと」「長生きをすること」「名誉を得ること」であり、喜ばれるものといえば「身の安泰」「食物の美味」「衣装の見事さ」「美しい容貌」「麗しい音楽」である。天下で忌み嫌われるものといえば「貧しい立場」「卑しい身分」「短命の人生」「悪い評判」である。世間の人々にとっての苦しみとは「我が身の安定が得られないこと」であり「おいしい食べ物にありつけないこと」であり「立派な衣装を身にまとえないこと」であり「美人に巡り会えないこと」であり「優れた音楽を聴けないこと」である。こういったものを得られずにいると、世間の人々はすぐに悔やみだし、おどおどとして落ち着かなくなる。これらは形の上での事象に起因するもので、誠に愚かなものである。
 富む者は我が身を磨り減らして働き、多くの財を積み上げながら、その全てを使うこともできない。これは財貨という外物を得るために働いているのであって道にはほど遠い。身分の高い者は、夜を日に継いで、仕事の成否に思い悩んで休むこともない。これもまた外物を得るために働いているのであって、道には遠い。人の一生は、生まれてから死ぬまで憂いがつきまとうものだ。長生きをする者は、ぼんやりとしていて憂いを抱えながら死ねずにいる。何とも苦しい一生だ。これもまた外物のための生であり、道には遠い。勇ましい戦士は天下の英雄としてもてはやされても、我が身を活かすには至らない。私には、世間で善とするものが本当の善であるかが分からない。もし世間の善が本当の善とするならば、私を活かす道はないのだろう。もし世間の善が善でないとするならば、むしろ私を活かす道も拓けよう。(中略)世俗の人々が今楽しんでいるところを見ても、私にはその楽しみとやらが本当の楽しみであるか理解できない。私が見る限り、世俗の楽しみというのは、死ぬまで止まらぬ獣のような勢いで、群れをなして何かに駆り立てられているかのようだ。彼らは口では「楽しい」と言っている。私もそれにつきあうことはあるが、それらを楽しいものだとは到底思えない。
 果たして、人間にとって本当の楽しみとは「ある」のだろうか、「ない」のだろうか。私にとっては無為こそが至上の楽しみと言えるが、世俗の人にとってはそれは大きな苦しみとなるようだ。古語にもある「至上の楽しみは楽しみを超えたところに、最上の名誉は名誉を超えたところにある」と。
 天下は是非(肯定・否定)によって割り切れるものではない。しかしながら、是非を超えた無為の境地にあればその是非を定めることもできよう。同じく、我が身を活かす至上の楽しみも無為なればこそ見いだされるだろう。


兼好法師((1283~1352)。
≪ 名利に使はれて、靜かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
 財多ければ身を守るにまどし。害を買ひ、煩ひを招く媒(なかだち)なり。身の後には金をして北斗を支ふとも、人の爲にぞ煩はるべき。愚かなる人の目を喜ばしむる樂しび、又あぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人はうたて愚かなりとぞ見るべき。金は山にすて、玉は淵になぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
 埋もれぬ名をながき世に殘さむこそ、あらまほしかるべけれ。位高く、やんごとなきをしも、勝れたる人とやはいふべき。愚かに拙き人も、家に生れ時にあへば、高き位にのぼり、驕りを極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから卑しき位にをり、時に遇はずして止みぬる、また多し。偏に高き官・位(つかさ・くらゐ)を望むも、次に愚かなり。
 智惠と心とこそ、世に勝れたる譽も殘さまほしきを、つらつら思へば、譽を愛するは人の聞きを喜ぶなり。譽むる人、譏(そし)る人、共に世に留まらず、傳へ聞かん人またまた速かに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られんことを願はん。譽はまた毀の本なり。身の後の名、殘りて更に益なし。これを願ふも次に愚かなり。
 たゞし、強ひて智をもとめ、賢をねがふ人の爲に言はば、智惠出でては僞(いつはり)あり。才能は煩惱の増長せるなり。傳へて聞き、學びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一條なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か傳へむ。これ、徳をかくし、愚を守るにあらず。もとより賢愚・得失のさかひに居らざればなり。
 迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくの如し。萬事はみな非なり。いふに足らず、願ふに足らず。(『徒然草』第三十八段)≫

・・・『徒然草』の第三十八段を個別に見ると、≪強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり≫は『老子』。
老子(Laozi)。
『大道廢、有仁義。智慧出、有大偽。六親不和、有孝慈。國家昏亂、有忠臣。(『老子』第十八章)』
→大道が衰えることで仁(おもいやり)義(正義)が起こる。智慧が生まれることで大きな偽りが起こる。六つの親族が不和であると、孝行者がもてはやされ、国家が乱れると、忠臣が幅をきかせる。

≪可・不可は一條なり。≫は『荘子』。
荘子 Zhuangzi。
『無趾語老聃曰「孔丘之於至人、其未邪!彼何賓賓以學子為?彼且蘄以諔詭幻怪之名聞、不知至人之以是為己桎梏邪?」老聃曰「胡不直使彼以死生為一條、以可不可為一貫者、解其桎梏、其可乎?」無趾曰「天刑之,安可解?」(『荘子』徳充符 第五)』
→無趾が老聃に語って曰く「孔丘とは至人とのふれこみですが、まだまだですな。彼はなぜあなたに向かって教えを請おうとしているのでしょうか?彼は世間を騙して奇怪な名聞とやらを得ようとしていうのでしょうか?名声などというものは、至人にとってはしがらみにしかならないことを知らないのでしょうか?」老聃曰く「ならば生と死は一体であり、可と不可は一條のものであるとする者に、彼のしがらみを説いてやってはどうかね?」無趾曰く「彼は天の罰を受けてしまっています。それを解くことがかないましょうや。」

≪智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。≫は『老子』『荘子』の両方。
荘子 Zhuangzi。
『若夫乘天地之正、而御六氣之辯、以遊無窮者、彼且惡乎待哉。故曰「至人無己、神人無功、聖人無名。」』
→天地の正しき営みにその身を乗せ、天地と四季の氣の巡りを御し、無限の世界に逍遙する者にとって、頼みとするものなどあるだろうか?故に「至人に自己はなく、神人に功績はなく、聖人に名誉の彩りはない。」という。

≪いみじかりし賢人・聖人、みづから卑しき位にをり、時に遇はずして止みぬる、また多し。≫は、『文選』に収録されている、竹林の七賢のうちの一人・嵆康(けいこう)の『與山巨源絶交書(山巨源に與ふる絶交書)』から。ご丁寧に「老子莊周、吾之師也」のくだり以降の引用です。
竹林七賢図(1983) 范曽筆。
『吾昔讀書、得并介之人、或謂無之、今乃信其真有耳。性有所不堪、真不可強。今空語同知有達人、無所不堪、外不殊俗、而內不失正、與一世同其波流、而悔吝不生耳。老子莊周、吾之師也、親居賤職。柳下惠東方朔、達人也、安乎卑位。吾豈敢短之哉。又仲尼兼愛、不羞執鞭、子文無欲卿相、而三登令尹、是乃君子思濟物之意也。(「與山巨源絶交書)」』
→私が読書をしていたとき、世俗に合わせずに我が道を貫き通した人に出会うと、こんな人物は存在しないのではないか?とも思えたものでしたが、今、私は彼らが実在の人物であったと確信しています。人間は本性において耐えられない、まさに強制できないものがあります。空虚な書物にもあるように、外見は普通の人と変わらないものの、外界の変化に流されず、自己の内面を保ち、波風の立つ世俗の内にあってもしがらみにとらわれない「達人」がいるということは、広く知られているところです。老子、荘周は吾が師であります。彼らは自ら卑しく貧しい地位に身をおきました。卑しい位に安んじた柳下惠や東方朔は達人であります。何を以て私が彼らを誹ることがありましょう。仲尼は兼愛を説き、常に教鞭をとる立場から離れませんでした。子文は卿相になることを望まないにもかかわらず、三度令尹の位に就きました。これらは「君子は万物を救済しべし」という志のあらわれであります。

参照:與山巨源絕交書 維基文庫,自由的圖書館
http://zh.wikisource.org/wiki/%E8%88%87%E5%B1%B1%E5%B7%A8%E6%BA%90%E7%B5%95%E4%BA%A4%E6%9B%B8

第三十八段は、調べてみると『白氏文集』からの言葉もありまして、『徒然草』の第十三段に列挙された書物の全てから引用していることが分かります。

兼好法師((1283~1352)。
≪ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。文は、文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。(『徒然草』第十三段)≫

今日はこの辺で。


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